新潮45 3月号「二年後の被災地にて」+α 現在の汚染と除染について

新潮45の3月号に「二年後の被災地にて」として、木村真三氏が寄稿しています。

氏は放射線防護学者ですが、自らの活動を「研究」ではなく「調査」と位置づけており、福島県
各地を廻り、人々の生活の中に入って測定等をされています。

筆者が読んで重要だと考えた箇所を箇条書きにすると、


・汚染状況はまだすべて明らかになっていないのに、なぜ軽々しく「帰還」を言うのか

・町に誰かが戻れば、医療、消防、警察などのインフラを担う人々が必要。その担い手
 の多くが若者である

・山々を汚染した放射性物質が雨によって流され、堆積物として溜まる箇所がある。新たな
 汚染箇所は川の蛇行域に多い。このように放射性物質は移動するため、福島県に限らずいつ
 どこで高い線量が計測されるかは分からない状況が続いている

・専門家の視点だけでは放射能汚染の実態が正確にはつかめない。専門家は土壌の調査はできるが、
 その地域で子供たちがどのように遊び、どんな場所に行きたがるのかは知らない。実際にそこで
 生活している人でないと分からないことが多い。

・一人一人が科学的な視点を持って放射能汚染と向き合うことが有効。

*ちなみに3/11日時点で木村氏が入院されていると過去記事に書きましたが、4/26に開催された
 講演会に出席されているので、退院された模様です。


プラスαと書いたのは、こちら「核の難民 ビキニ水爆実験「除染」後の現実」です。

実は、ビキニ水爆実験と表現されてはいますが、同書で取り上げられている実験で使用された水素爆弾は、
中心に核分裂作用を起こす起爆装置、その周囲に核分裂によるエネルギーで核融合を起こす重水素、さらに
その周囲に核融合によって放出される中性子線で核分裂を起こすようにウランを配置、という、いわゆる
3F爆弾(Fission→Fusion→Fission)のため、はるかに強力で160km離れた地点にまで「死の灰」を降らせた
ものです。また、核実験ではセシウム134は放出されないので、参考程度に読んでおきました。

その中に、飯舘村からの避難民の方の話が収録されています。(2012年1月13日現在のお話。一部抜粋します)

「・・いま、飯舘村では月に二回、同じ場所で放射線量を測ってます。その結果を見ますと、十日前に測った
 線量よりも、きょう測った線量のほうが高くなっているところが、いくらでもあるんです。
  行政側は、『家のまわりの除染は二年かけてやる』、『田んぼや畑の除染は五年でやる』、そして『山の
 除染は二十年でやる』と言っている。しかし、『山の上のほうは除染しない』と言う。
  そうしたら、いくら家のまわり、田んぼや畑を除染しても、また山から放射能が流れてくるわけでしょう。
 私は農家です。なんにも作れないわけです」

さらにH(筆者注:原文では実名)は、行政側が「帰郷」を前提としていることに異論を唱えた。

「国や村が『飯舘村に帰れ』と言ったら、私は帰るかも知れない。
 でも、子どもたち、孫たち−私には四人の孫がいます−これを戻すわけにはいきません。
 私たちが戻って飯舘で一生を閉じれば、それで村は終わりになるでしょう・・・
  だから、『帰郷計画』だけでなく、『村を離れる』という選択肢を考え、シミュレーションを
 いまからやらないと駄目だ。
  なぜかと言うと、これから四年、五年後に『やっぱり除染は駄目だった』となった場合、その
 四年、五年は無駄になるんです。
 だから、『村を出る』ということも、ひとつの選択肢として持っていなければ駄目なんです」

(抜粋以上) 

筆者自身内部被曝対策は何とか続いていますが、外部被曝対策は個人ではどうしようもないのか、という気
と、もう少し調べて何とかしてみよう、という気が半々です。